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英語能「青い月のメンフィス」が教えてくれた「能」という構造

先日、英語能「青い月のメンフィス」を観てきた。

題材がエルヴィス・プレスリーというところに納得感があり、意外と違和感がないかもしれないという期待を持った。

結論から言うと、期待した以上に「能」という構造を通して、他国の人物像を理解することができたことが新鮮だった。


「能」の構造:

まず、ワキが出てきて観客を物語へと誘う。その真っ直ぐな声が美しかった。

そして、シテとワキの問答あたりから、エルヴィスがどのように自分のタレント力を作り上げていこうとしていたのかが見えてくる。

アイの役割は通常の古典の言葉で書かれた能とはちょっと異なり、英語で内容がストレートに理解できるからなのか、物語の現代語訳的な感じではなく、この部分単体で狂言になるような印象を受けた。

さらに、日本人が好きな「月」の夜の美しい描写が次の舞へと誘う。

そして「孤独の舞」

修羅道など仏教の世界観があるわけではないので、死者は孤独となるのか。

その点が楊貴妃に感じるようなもの哀しさがある。

どんなに人気者でも、どんなに愛されていても、死後の世界では孤独で、今も執心がその場に留まり続けているような舞だった。


こうして「能」という構造を通じて、エルヴィスをみると、私自身が若い時になんとなくフワッと感じていたテレビや雑誌で見た古き良きアメリカ的な情報が、

スターという存在でありながら抱える光と影のようなものを日本人の感覚のままで感じ取ることができた。


なぜこのようなものを作り上げることができたのか。

会場で販売されていた「エルヴィスの幽玄」という本を読んでみると、

リチャード・エマート師が「外国語の詞章による能を作曲する」ことについて、能の特性は外的要素と内的要素に大別できて、詞章は外的要素であり「古典能の詞章自体は能ではない」と書いてあった。


これは驚くことでもなんでもない。

日本舞踊や歌舞伎舞踊の歌詞に能の詞章が使われている曲があるので、能の詞章があれば能になるわけではないことはよく知っている。

例えば、娘道成寺には、能「道成寺」の詞章と能「三井寺」の詞章が取り入れられているが、能ではなく三味線音楽として成立しているから。

だから、古典能の詞章を英語に翻訳したものに限らず、英語能はできる。


さらに、「能」らしいと思わせる部分:

前半の「クセ」の部分で『エルヴィスの曲「ラブ・ミー・テンダー」や「好きにならずにいられない」の有名な歌詞を引用して詩的な要素を強めている。エルヴィスの曲をよく知っている人はここは聞きどころとして楽しまれることだろう』と書かれている。

古典の能の詞章も、当時の人からしたら、よく知られた漢文や和歌が入っている部分を聞きどころとして楽しんだと思う。


他にも「能」とは何かということについて、興味深いことがたくさん書かれていたので、詳しくは本を購入して読んでいただくことをオススメする。




残念だったのは揚幕を上げるスペースが十分確保できなかったようで、半幕はあまり効果がなかったように思った。


何はともあれ、このようにして英語能が発見した「能」という構造が持つ大きな可能性に、これからの活躍を期待したいと思いました。


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